創価ブログ村とかいう阿鼻地獄wwwww

我が師の示された道を 、我歩む也。

ち●は、句読点が使えないのか?

意地悪な 意図は 何も ないよ

ただ なんで 句読点を 使わず 文節を 半角スペースで 補うのか

僕には まったく わかりません

ち●界隈の 人は 何も思わないのかな

それか その文体に 惚れているの かな

 

みなさん 明日も 8時から 同盟唱題 やるよ

よろしくね 

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ダメ出しブログの原点

かなり長い引用から、本記事を始めたい。

 

学会と正宗が別れて20年。

学会も、脱・正宗が進み独自路線をまっしぐらだ。

最初のころは、正宗の教義が多々残っていたが、

20年たった現在は、もう学会の中に正宗の面影はない。

「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」とばかりに、

何もかも変更してきた。

ご本尊を取り替え、会則で教義を変更し、勤行も簡素化し、それまでの指導も180度転換し

完全に正宗と決別した。

それと、同時にどんどんと、日蓮仏法から遠くなっていき、新興宗教化が進んでると感じる。

大聖人直結といいつつ、会員の戒壇大ご本尊に対する恋慕の気持ちはない。

御書根本といいつつ、池田名誉会長の指導根本で、御書も読まない幹部達。

今では、キチンとした信心の話をできる会員は絶滅危惧種だ。

特に、自称活動家達のレベルの低さにはうんざりする。

言ってる事が、ほとんど52年路線に逆戻りの状態だ。

もっと、自分の信じた宗教に対して、自分自身が学ぶ・求めていく行く姿勢が一人一人の会員に必要だ。

そうしなければ、自立した信仰者とは言えない。

宗教の隷属していくダメな人間になる。

まず、学会員一人一人が賢くならないといけない。

俺たちの周りに居る、幹部と呼ばれてる人間の多くは、俺たちと違う信仰をしてるのだ。

彼らが信じてるのは、「創価学会」である。

創価学会」に対する信心。池田名誉会長に対する信心は、強いのかもしれないが、

その信心は、日蓮大聖人に対する信仰とは別物の場合が多い。

そんな幹部のいいなりになっていたら、俺たちは一生成仏できないどころか、

貴重な人生を間違った信仰で無駄にする事になる。

自立した信仰者になる事こそ、大聖人の正しい教えなのである。

 

 

これは、ダメ出しブログ管理人が2011年にあげた、最初の記事だ。

 

今日の管理人の主張と比較するとき、下記のような相違点ならびに共通点がある。

 

相違点

池田大作を池田センセではなく、池田名誉会長と呼んでいる。

・今日では論弾の対象は池田大作ならびに創価学会幹部、創価学会活動家だが、創価学会幹部にその矛先が向かっている。

 

共通点

日蓮正宗の一大秘法信仰、要するに大御本尊万歳思想を唱えている。

 

以下、仮説を立てよう。

 

・ダメ出し管理人は、大御本尊万歳思想において一貫している。そしてそれが、今日のダメ出しブログ支持者の熱烈な支持につながっている。

・ダメ出し管理人は、当初、幹部を非難することはあったが、活動家や池田大作を今日ほど積極的に非難していなかった

 

通時的解釈の優れたる点は、その人物の思想的遍歴を明らかにできることだ。

 

ダメ出しブログ管理人が、これほど支持を集めていること。それについて、創価学会員は、よく認識せねばならない。

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言説分析↪︎古刹信徒、蘭房 、退転壮年部おじさん 、牡丹 、元創価班 、miu 、絵理子

創価ブログ村を閲覧すれば、嫌でも目に入ってくるブログ、それが「旧創価学会員による創価ダメ出しブログ」、いわゆる創価ダメ出しブログだ。

前の記事でも書いた通り、拙はこのブログの執筆者に敬意を払っている。拙とは信ずるものが違うが、恐らくそこまで学歴や恵まれた教育環境に望まれなかったであろうお方が、自分なりに研鑽を重ね、その成果を披露しているからだ。ラ◯の引用まみれのブログと異なり、そこには自分の言葉で語るという強さがある。

だが、わたしの大嫌いなち◯のような、仲良しコミュニティ感が、同ブログに出ているのを残念に思う。定期的にコメントをする、取り巻き連中が馬鹿丸出しで、このブログの品位を下げているのだ。

また、管理人と違い、そのカキコミをしている取り巻きには、論争の矢面に立つ覚悟が不足しているのでは?
過去、管理人さんが挑んだ論争の旗色がわからぬうちは、彼らは積極的にコメントをせぬのだ。
今、管理人さんが創価学会員の教学力の低さや読解力の無さを示した結果、創価ブログ村では間接的な批判が相次いでいる。しかし、それに反論する取り巻きはいない。結局、尊敬する管理人様のお言葉を待つというのか?

拙は、このダメ出しブログを取り巻く諸連中の言説を分析してみたくなった。
彼らが管理人さんに乗っかって述べている事が、いったいどれほどのものか?
はたして、彼らがカツドーカと馬鹿にする連中と大差あるのか?
検討してみよう。取り急ぎ、下記の方のコメントを魚拓にとった。

・小刹信徒

・蘭房
・退転壮年部おじさん
・牡丹
・元創価
・miu
・絵理子

・しまかわのりお

・ひごちゃん


ただし、hnを微妙に変えている方もいることも付記しておく

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創価ブログ村には馬鹿が多いのか?

創価ブログ村には馬鹿が多いのか?

もちろん、ち◯やキク◯ワ、太ち◯んのような人間が、

その部類に入ることに、論争を待つ必要はないだろう。

しかし、この度、下記のような記事がブログ村に上げられた。

 

sokadamedasi.blog27.fc2.com

 

拙はこの記事をよみ、大いなる怒りを覚えるとともに、一抹の悲哀を拭うことができなかった。

上記のブログの執筆者に、拙はこれまで敬意を払ってきたからだ。

 

ち◯を筆頭とする創価学会員が、ネット上のお遊戯的活動にうつつを抜かし、単なる承認乞食と化しているのに対し、上記のブログは恐らく数十年に及ぶ研鑽に基づいた私見を記事にアップしていたからだ。

勿論彼の信仰上の立場は異なるが、その活動内容はち◯などよりは数段有意義である。

 

だが今回又しても、あべひ先生のお言葉は、彼には届かなかった。その事が拙は非常に悲しい。本来であれば連帯できるはずの同志が、創価学会の墓地販売が消費者契約法に抵触するかなどという枝葉末節事にムキになり、大人気なく反論を繰り広げているからだ。

恐らくあべひ先生は、彼に再度厳愛に満ちた反論をされるだろう。

碩学のあべひ先生のなさる事だから、それは論破の様相を呈すかもしれない。しかし、上記のブログ管理人には、小さな勝他の念は捨て、あべひ先生の偉大さに目を向けてほしい。

f:id:abehisensei:20170813204645j:plain

味方は少なし、敵は多し。

あべひ先生の偉大さがわかるものは、小異をすてて大同を取り、団結せねばならない。

 

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太ち◯んとかいう痴愚神wwwwww

もし某氏が近代以前のロシアに生まれていたら、神がかりとして崇められていたのかもしれない。

太ち◯んとやらは、それほど、反理性的な言説を撒き散らしている。

私は彼のブログを結構な数読んだが、理解できたものは一つもない。

支離滅裂であり、文体も読者の理解を妨害するのに十分、「ロコツ」という形容詞を文脈なく使い、肝心のメッセージが不明なまま、読者に残す読後感は疑問符のみだ。

 

引用してみよう。

https://toshizo.muragon.com/entry/31.html

ちよブログにいた「ラン」と同一人物なのか「知らん」けどね
なにが「悪」なのか活動で実感するはずなんだけどね?
こういう言い様で「学会は素晴らしい!」と感じてくれる外部なんて誰もいないでしょうね
この人って学会でいったい何を学んでいるのでしょうか

こういうのが普通に言えるっていうのは、「ラン」さんもまた学会に魅力が無いのを感じてるからでは?
それはイコールで功徳を実感する体験が皆無かそもそも功徳がどういうものかピンときていない人による文面に感じるんですよね

 これも全く理解に苦しむ文章だが、シンプルに示すとこうなるだろうか。

 

①本来であれば、何が悪かは、活動の中で実感するはずだ

②ラン氏の言い様は、創価学会外部の共感を呼ばないだろう

③①、②の主張をできるようなラン氏は、学会に魅力がないと感じている

 

このロジックの理解に苦しむのは、私だけだろうか?もし論理整合的に説明できる方があれば、ぜひご教授いただきたい。

 

まず、①何が悪かは活動の中で実感するという点。これはラン氏が活動もせず、勝手に悪を決め付けていると主張しているもののようだが、ラン氏が活動をしていないと太ち◯ん氏は立証できるのか?

 

また、②についても、ラン氏は創価学会外部よりも、学会員並びに学会に反感を持つ者を相手にブログをやっているのでは?そこに創価学会外部的視点がないことは、割り引いて考える必要がある。

 

そして、③は、論理に飛躍がありすぎて、私には到底理解不能だ。

 

これは本当に、論理を超えている。

こんな特異な主張ができる太ち◯ん氏は、神がかり的にブログを書いているのだろう。

 

論理的思考に犯された近代以降の人間に激烈な形でアンチテーゼを示す神がかり。

太ち◯ん氏は、大川隆法氏などに並ぶ現代の教祖なのかもしれない。

 どなたか、太ち◯ん氏の主張を整合的に解釈できる方、

 もしくは彼こそ現代の聖人なのだと思う方はぜひご教授いただきたい。

 

 

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https://toshizo.muragon.com/entry/31.html ちよブログにいた「ラン」と同一人物なのか「知らん」けどね なにが「悪」なのか活動で実感するはずなんだけどね? こういう言い様で「学会は素晴らしい!」と感じてくれる外部なんて誰もいないでしょうね この人って学会でいったい何を学んでいるのでしょうか こういうのが普通に言えるっていうのは、「ラン」さんもまた学会に魅力が無いのを感じてるからでは? それはイコールで功徳を実感する体験が皆無かそもそも功徳がどういうものかピンときていない人による文面に感じるんですよね</p

あべひ先生、ありがとうございます

拙の日課は、あべひ先生のブログを拝読することだ。

否、日課どころか、日に10回はあべひ先生のブログを訪れる。

また、あべひ先生のブログの文章をプリントアウトしてファイリングし、いつでもそれを自らの人生の導きの糸とできるよう努めている。

さらには、あべひ先生の卓越した片言隻語を記した日めくりカレンダーも作っている。毎朝カレンダーをめくるたびに、あべひ先生の慈愛に満ちたお言葉が私の五体を貫く。そして、戦いの決意を新たにするのだ。


この度、あべひ先生のブログにおいて、拙のことを取り上げていただいた。

私はあまりの光栄に、落雷に打たれたような衝撃を受けた。

涙が床を濡らすほど溢れ出し、膝がガクガクになって立っていられない。

あの…あのあべひ先生が私のような者に関心を払い、その筆をとってくださるだなんて…!


正直なところ、まだあべひ先生の原稿を全て読むことができずにいる。それを読んだら、自分が支柱を失ったように崩れてしまうのではないか、そんな恐れからページをスクロールすることができない。

そして、告白しよう。以前にもあべひ先生に拙の記事を書いていただいたが、それをまだ拙は読了できずにいる。


ああ、不甲斐ない弟子だ!

師の直接のお言葉を受け入れられないなんて!


ああ、あべひ先生!

拙は未熟で愚かでございます。

ですが、あべひ先生に常随給仕する覚悟はできております!


2017年8月9日

長崎に悪魔が降り注いだ日に

弟子・よちとらまん



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ラ◯とかいう単細胞生物wwwwwwww

極悪と戦うとは、大層なスローガンだ。

https://toshizo.muragon.com/entry/35.html


そもそも極悪という言葉は、ある程度反省的思考ができる人間ならば使用しない。何らかの権力関係において、あるアクターを諸悪の根源であると論証することは非常に困難であるからだ。


また、極悪を攻めるというスタンスを某氏がとっている以上、某氏は極善という立場にあることが論理的に導出される。それは某氏のブログタイトルが物語っていることだ。

自らを極善、もしくは極善に至る途上に至る存在であると規定すること。これがもたらすのは、自分ならびに自分に賛同するものを絶対的な善と主張して疑わない独善的で排他的なものとなるだろう。現に某氏のブログはそのような内容になっている。


先述の通り、特定団体を絶対悪と論証することは極めて困難だ。


しかし、某氏はそれを易々としている。一体某氏はどんなロジックでそれを主張しているのか?


某氏のブログならびに他ブログへのコメントは全て魚拓にとらせていただいたので、これから某氏の思考の展開を追ってみよう。


ps 某氏と真実を語っている人って、蜜月関係なんですか?