創価ブログ村とかいう阿鼻地獄wwwww

我が師の示された道を 、我歩む也。

印象操作?取り巻きの力を借りるち◯氏

創価ブログ村において、大変に興味深い記事があったので、考察してみたい。

 

先ずは本記事の構成をシンプルに示してみよう。

 

http://tomotiyoo.exblog.jp/28011683

 

第1部 あべひ氏の[四季の励まし]に関する記事の批判

①印象操作の定義を示す

②あべひ氏の記事が、その定義に当てはまることを示す

③印象操作を行うような人間を批判することが正しいことを、他人のブログと戸田会長の引用を元に主張する

④自身の記事に対する賛同をブログ村バナーへのクリックという形で要求

 

第2部 あべひ氏のアメーバなうでの投稿に対する批判

①あべひ氏のコメントの引用

②そのコメントにおける[たくさんの方との議論]に対して反論

③その[たくさんの方]が、創価学会員の中で極一部の創価学会員を虐める方である事を示す

④その極一部の創価学会員のアメーバなうのリンクを貼り付け

 

これは非常に興味深かった。

 

とはいえ、勿論、論の進め方が知的であったからという理由に基づくわけではない。該当記事を読んだ方ならわかると思うが、主張と論拠の関係が不透明であり、おそらく小学校課程における作文指導もあまり受けておられないのだろう( 受けておられたら申し訳ないが、アウトプットはその水準 )

 

ただ、[該当記事執筆者が何が自らの主張の権威づけに役立つと認識しているか]、それが記事からわかるのが興味深いのだ。

 

自らの主張を述べる際、ただ「私はこう思う、それは正しい、なぜなら私がそう思うからだ!」と言っても説得力はない。自らの主張が正しいと理由づけるためには、他人の言を引用するなどして、自らの主張の正当性を高めることが求められる。

 

該当記事執筆者の場合、その引用元は下記だ。

 

①印象操作という心理学的概念

②他人のブログ

③戸田会長の言葉

創価ブログ村における支持

 

順不同になるが、見てみよう。

 

①については、学術的な概念を自らの論に引用するのは、決して非難されるべきではない。過去の膨大な学術的蓄積を参照することにより、眼前の現象を考察することは、洗練された意見を述べるための賢明な方法だ。

また、自分の主張に正当性を付与するためにも、学術的蓄積に依拠することは、有効であるといえよう。

だが、該当記事執筆者は、本当にこの心理学的概念を理解しているのだろうか?

まず、リンクを貼られている参照記事がNAVERまとめである。せめて、心理学の入門書くらいは読んだ上で主張しなければ、むしろ執筆者の不勉強を露呈することになるのではないか?印象操作とは、かなり扱いの厄介な概念であり、容易に他人の主張を印象操作と判ずることは困難だ。それを安易に主張する該当記事執筆者は、俗的に心理学的概念を濫用しすぎでは?と思われる。

(もし参考文献が必要ならば示す)

https://www.amazon.co.jp/恥と自己愛の精神分析-対人恐怖から差別論まで-岡野-憲一郎/dp/4753398099/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1501418404&sr=8-7&keywords=情動+精神分析

 

③については、戸田会長の言葉を自らの主張の正当性を誇示することに使うことは、創価学会内でよく見られる常套手段だ。

だが、その戸田会長の言葉から、該当記事執筆者が何を主張したいのか、よくわからない。

教義の論争において、三代会長の言葉を使うことは、少なくとも創価学会内部においては有効だ。

だが、あべひ氏の著作権に関するお伺いコメントの批判のために、戸田会長の言葉を使うことによって、該当記事執筆者が何を言いたいのかよくわからない。「該当記事執筆者があべひ氏を非難する記事を上げたことは、戸田会長の思想から見ても正しい。だから私は正しいのだ!」と言いたいのだろうか?

これは、ほんとうにわからない。

 

さて、②と④については、該当記事執筆者がネット上のコミュニティに大きく依拠していることを示すものだ。

まずは知り合いのブログの引用により、自らの主張に賛同するものが自分だけでないことを示そうとする。

さらに、ランキングバナーを記事上に上げることによって、自らの主張の正しさを数の論理によって示そうとする。

 

つまり、自分と仲のいい人物に自らの主張が正しいと示してもらうことによって、自分は正しいと主張しようとしているのだ。

 

これは該当記事執筆者がよく使う手法だ。

 

自分の論に自信がないのか?直ぐに自分と仲の良い人物に依拠しようとする。それを基に、その時々で自分と対立した人物を非難する。

 

私は該当記事執筆者に反発を覚えている。

それは、該当記事執筆者が大して論理的考察力がないにもかかわらず、自らのコミュニティ動員力で自分に正当性を付与し、場合によっては対立した他人を攻撃することだ。

 

別に他人を非難したいのなら、堂々とやればいい。複数の他者を介することが卑怯なのだ。


その思索過程を、これから徹底的に明らかにしよう。

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