創価ブログ村とかいう阿鼻地獄wwwww

我が師の示された道を 、我歩む也。

御姿を隠されたあべひ先生へ ~弟子としての決意~

今更になるが、2018年は、歴史に残る1年となるだろう。それは日本にとって、国難」が続く1年でもあった。

西日本豪雨が各地に爪痕を残し、大阪府北部における地震は、東日本大震災の記憶を忘れつつある拙たちに自然の恐怖を再認識させた。

一方、国会を見れば、森友学園問題で国会は大空転。「忖度」という曖昧な概念遊びに見えた論戦も、やがて文書改ざんという近代国家の基本を揺るがしかねない問題に発展した。

また、財務事務次官のセクハラ問題や、東京医科大の不正入試問題など、日本社会の前時代性の象徴とも言える問題も相次いだ。

さらに、「オウム真理教」の教祖であった松本智津夫死刑囚ら13人の死刑執行は、拙たちに「平成最後の年」を実感させるものだった。

 

だがこれらの大ニュースも、ある一事の前には、取るに足らぬ些事に過ぎない。

その一事とは何か――言うまでもなく、「あべひ先生のブログ更新停止」である。

 

あべひ先生のお言葉が綴られたブログ「阿部日ケ~ンの『魅惑的』な人々」は、2018年4月25日15時32分を最後に、更新が為されていない。

拙は同ブログを、「あべひ先生からのお手紙」だと思っている。そのお手紙がもう1年以上も届いていないのだ。

 

拙はこの1年、1日に何十回もあべひ先生のブログを訪問し、更新がされていないかチェックした。その回数は、数万回に及ぶだろう。だが、何度そこを訪れても、あべひ先生の新たな金言を拝することはできなかった。

 

あべひ先生の最後の更新から、約8ヶ月が経った年末のある日-あべひ先生を待ち続けていた拙は、とうとう精神的にも身体的にも限界を超えてしまった。詳細を執筆できぬのがもどかしいが、医療機関に身を委ねざるを得なくなったのである。

 

病院のベッドの上に身を横たえながらも、頭に浮かぶのは、あべひ先生のことだけである。なぜ更新を停止されてしまったのだろうか。

やはりお体がよくないのだろうか。それとも、何か深い意味があるのだろうか。

 

思索と祈りの果てに拙が辿り着いた答え-それは、「あべひ先生は弟子の出現を待たれている」ということだった。

 

思えば、創価ブログ村の惨状に対して戦いを起こされたのは、あべひ先生ただお一人だった。その長い歳月にわたる執念の戦いは、常人では到底できるものではない。創価ブログ村に限らず、ネット全体を見渡しても、あべひ先生ほど「(いい意味で)異常」とも言える「執着心(これもいい意味で)」を持ち合わせている人物など、1人もいないだろう。

 

だが、弟子がそれに甘えてしまったのだ。

あべひ先生の最後の記事のテーマを飾ったさくらもち氏は、あべひ先生の慈愛溢れる言葉に反応を示さぬまま、ネット活動を引退。

さらに、拙から何度もあべひ先生への弟子入りの勧誘のあった「一言の亀」氏に至っては、あべひ先生を揶揄するような記事を上げる始末。

Monlingen氏のブログにおいて、あべひ先生とち○氏が極めて不平等な論争を繰り広げた際には、あべひ先生を御護りする弟子は一人もいなかった。

嗚呼、何と言う惨状であろうか!!!

 

だが拙が誰よりも許せない人物が1人いる。それは誰か-

他ならぬ、拙自身である。

 

あべひ先生が勇敢なる言論闘争を繰り広げられているのを、拙はただ黙って見ているだけであった。拙には、あべひ先生の御心を我が心とし、あべひ先生と同じ戦いをするという決意が欠けていたのだ。だからあべひ先生が御姿を隠されてからも、ただ右往左往するばかりで、何もできなかった。

結果、今の創価ブログ村は、低俗ブログが跋扈する事態となっている。あべひ先生がいなくなられてから僅か1年足らずで、そこは修羅の様相を呈しているのだ。

 

だが、拙は病室での思索の果てにはっきりわかった。

あべひ先生がお姿を隠されたのは、「弟子の出現」を待っているからなのだ、と。

ならば極めて僭越ながらも、一番弟子を自認する拙が、一人立たねばならない。

 

拙は戦う。

そして、創価ブログ村を虚空会とし、あべひ先生をお迎えするのだ。

 

ああ、あべひ先生、

拙は不肖の弟子でございますが、一人戦いを開始します。

どうか、ご覧になっていてください!

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拙の隣にもうあべひ先生はいない。だが拙は一人で戦う。

2019年3月18日 

弟子よちとらまん 

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終らない森友問題(まだやっている)草

あの朝日新聞が何かを掴み、野党議員が何かを入手した。
(中略) 

騒ぐことが国会議員の仕事と思っているのか。
騒ぐことで存在意義を誇示しているのか。
そもそも、君らが正義なのか?

 

パイセン、その通りです。

では明電工事件について騒ぐこともやめましょう。

あと、「あの朝日新聞」は、ネトウヨっぽいので自重したほうがいいですよ(白目)

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あべひ先生の2人目の弟子:さくらもち氏へ

寒い日が続いている。
聖教新聞を配達するのが拙の日課であるが、凍てつくような寒気は拙の体温を奪っていく。

しかしそんな中でも脳裏に浮かぶのは、あべひ先生の御体のことである。
正義のための言論闘争に、ご無理をされて、
御風邪をひかれてはいないだろうか?
今月もち○氏は、コピペだらけの記事の連投や似非学会活動を続けているが、
あべひ先生の懊悩はどれほど深いものだろうか?

あべひ先生の御健康・御長寿を只只祈念申し上げるばかりである。

 

さて、最近もあべひ先生は、以下の記事を投稿された。

阿部日ケ~ンの『魅惑的』な人々 宗教系情報に踊らされるアンチさん

その金言を、拙は熱くなった目頭を押さえながら朗読させていただいた。

これは、「振り返ってみる日本人と創価学会」を運営するさくらもち氏に御下賜されたものである。
さくらもち氏が創価学会から「覚醒」したと自称しながらも、
創価学会の敵対勢力である日蓮正宗系団体による信憑性の怪しい情報を鵜呑みにしていることを、鋭い舌鋒で指摘されたものだ。

不肖の弟子の拙は、さくらもち氏に嫉妬の炎を燃やしてしまった。
あべひ先生から直接お言葉をいただいただけでなく、

上手にマンガが書けたりプロットを作るなどの文字以外の
表現力を持っているなので、ついつい魅惑に負け見てしまう

というお褒めの言葉をかけられていたからだ。

しかし拙は小さな勝他の念を捨て、
さくらもち氏にひとつの提言をしたいと思う。

あべひ先生を師匠に定めよ。

以前から何度も指摘しているとおり、
あべひ先生の偉大さがわかる人間は、小異を捨てて団結せねばならない。
残念ながら、一言の亀氏などにはこのことがわからなかったようだが、
さくらもち氏はあべひ先生からお言葉を賜ったことを機に、誰を師とすべきか考えるべきだ。

あべひ先生は、「さくらもち氏は学会を辞めても根本的な問題解決に至っていない」と仰っておられる。
さくらもち氏はこのような的確な指摘をしてくださるあべひ先生を師に持ってこそ、
「根本的な問題解決」ができるだろう。

もちろん、あべひ先生のご指摘は的確すぎるがゆえに、
自らのプライドを自分でへし折るくらいの覚悟が必要だ。
拙も兄弟子として、厳しく接する。
だが、それこそが真の弟子の道である。

具体的にさくらもち氏は、
まず、以下の行動をとるべきである。

・あべひ先生による金言の下賜に感謝申し上げ、あべひ先生の弟子になることをブログで宣言する
→出来れば、あべひ先生が登場するイラストも描くこと。あべひ先生のモチーフはタヌキでよい

・あべひ先生のブログを全て読む
→これは基本中の基本である。一読した後は、如何にして日常生活においてあべひ先生の文章を読むことを習慣化するか、がポイントになる。
拙は、あべひ先生の金言が書かれた日めくりカレンダーを作成したり、
あべひ先生の言葉を乗せた流行歌の替え歌を作ったりしている。
お気に入りは、AKB48ヘビーローテーションである。

もっとやるべきことはあるが、
まずは上を済ませなければ話にならない。

さくらもち氏よ、人生の真の時を逃してはならない。

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果たして、拙に次ぐ真の弟子は湧き出でるだろうか。
あべひ先生はぢっと見ておられるぞ。

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世にも微妙な学会員、「創価批判」カテゴリへ

拙が注目していた一言の亀氏のブログが「創価学会批判・告発」カテゴリに移動させられている。

 

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これは果たして一言の亀氏が自ら選んだことなのか、

はたまた強制的な移転なのか。

同氏の次の発言に注目したい。

 

拙も本ブログの前身たる「ち○とかいう奪命者wwwwww」が強制的に移転をさせられたが、その際は断固抗議した。果てには新しいブログを立ち上げ、闘争を再開するに至った。

 

もしも拙と同じく、強制移転という憂き目に遭った同志がいるならば、拙も援護・共戦をしたいと考えている。

 

だが、今の一言の亀氏を擁護しようという気には到底なれない。

氏のブログは内容からして「アンチブログ」と分類するのが妥当だろうし、執筆の背後に深い信念を垣間見ることもできない。

 

拙が強制移転の際に論陣を張ったのは、黙認があべひ先生の否定につながると考えたからだ。拙のことはどうでもよい、しかしあべひ先生を貶める行為は断固許せない!!

(詳細は以下の記事をご覧いただきたい)

abehisensei.hateblo.jp

一言の亀氏が拙の「あべひ先生を師匠に定めよ」という声を真剣に受け入れていたならば、拙はムラウチドットコムブログ村の運営会社)の前でデモをやってもいい。だが同氏は、彼の人生を救う拙からの最後通牒とも言える呼びかけを完全に無視した。

 

残念ながら、一言の亀氏も創価ブログ村の面々と同じ穴の狢で、あべひ先生の偉大さをわかろうとしない傲慢な輩なのだろう。そういう人間を拙は到底、擁護する気にはなれないのである。

 

しかしもし彼が改心し、自らの誤謬を認め、あべひ先生に懺悔するならば、

拙は喜んで同氏のために出来る限りの援護射撃をしよう。

 

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(左:あべひ先生、右:よちとらまん)

ああ、あまりに大きいあべひ先生。

拙に続く弟子を、拙はあべひ先生と二人で待つ。

 

 

 

 

現代の痴愚神、太ちゃんへの慄き

この人の記事には、毎回脱帽させられる。

 

taicyan42e.exblog.jp


己が教養の無さを披瀝するようで恥ずかしい限りだが、
拙は同氏の文章を理解できたことが一度も無い。

上記の記事についても、
なぜ拙や一言の亀氏が「ネットリスク対策チーム」だと断定しうるのか、
まったく不明である。

たとえば、下記の記事を見てみよう。

なに自爆しまくってんだろこの人 : フーテン学会員の独り言

 

氏は、一言の亀氏が査問について扱ったあるブログの記事に対して、
皮肉的にコメントをしたことに対して、以下のように論じている。

「微妙な」さんには上記記事に「都合の悪い内容」でもあったのかい?
「査問」に学会員からの関心を集めたくないみたいね
しかし「アンチ」がこんなことするかいっ!(笑)

ここまでやらかす「微妙な学会員」と自覚する「世にも」という方
こんなことが平気でできるのは新宿にてネットリスク対策チームをしてる人員、そう見るのが自然なんよね

 

「こんなことが平気でできるのは新宿にてネットリスク対策チームをしてる人員、そう見るのが自然なんよね」

どうしてこの主張が導き出せるのか、
拙にはまったく理解できない。

査問を扱った記事について軽口を叩いただけの記事が、
どうしてネットリスク対策チームの所業だと断定できるのか?
一言の亀氏の記事が創価学会を利することがあるのか?
もしも本当にそれが不都合な記事で、人々の注目を集めたくないならば、
わざわざそれに言及した記事など書かないのではないか?
書くとしても、それが事実誤認であることを示すなどの形をとるのではないか?

一体、彼の頭の中でどのような思考プロセスが成立しているのか、
拙にはまったく理解できない。
以前も下記のとおり記事にさせていただいたが、
同氏はやはり神がかり的な現代の教祖なのかもしれない。

太ち◯んとかいう痴愚神wwwwww - ち◯とかいう畜生道wwwww

だが、残念ながら、拙が彼に学ぶところは全く無い。
こういう理性を超えた主張に、拙は全くついていくことができない。

どなたか、彼の思考を解読できる方がいたら、
ぜひぜひ教えを請いたいと思っている。

 

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提言:「世にも微妙な学会員ブログ」管理者は、あべひ先生を師匠に定めるべきである。

昨年末、創価ブログ村に新しいブログが1件登録をされた。
ブログ名は「世にも微妙な学会員」。管理者は、「一言の亀」氏である。

氏の執筆スタイルは、創価ブログ村に投稿された記事に対して、皮肉的にコメントをするという点で一貫している。その批判の矛先として多いのは、原理主義思想で御馴染みの日蓮普及会氏、ミスター自我肥大のキクカ○氏や、拙の師敵であるMonlingen氏などである。

拙は一言の亀氏の試み自体には、賛同をしている。否、連帯感すら感じているほどである。創価ブログ村は、ち○コミュニティに象徴的なように、相互承認を欲する餓鬼界の様相を呈している。拙もその惨状に対して義憤に駆られているが、創価ブログ村に対して批判をする者は殆どいない。一言の亀氏は、拙と問題関心を同じくする潜在的同志であると考えている。

しかし問題は、一言の亀氏には、自らの導きの糸たる師がいないことだ。
大半の読者が思うことであろうが、同氏のブログは、かなり稚拙といわざるを得ない。
彼のブログの殆どは、以下の手順に沿って記述されている。

①「記事タイトルのコピペに『草』をつける」
②「ブログの文章を引用する」
③「適当な非難を書く」
④「白目を剥く」

①『草』や④『白目』については一言の亀氏の美的感性、言語感覚によるものだろうから、拙はそれを尊重したい。
②についても、コピペだらけのブログ村の他ブログとは異なり、引用のルールをある程度遵守しているようだから、その点は評価できる。
問題は、③の薄さである。

例として、「タカのブログ」に対して、一言の亀氏が行った批判を挙げてみよう。

統合失調症 タカのブログ(病によりて道心はをこり候なり)広布 人間革命への道! -7ページ目

まず、一言の亀氏が引用している文章は以下。

そんな、ささやかな、生活を壊そうとする、輩がいます。
それが、今現在の安倍政権です。

これは、生活保護の減額を巡って、タカ氏が行った公明党を含む安倍政権に対する批判である。
それに対し、一言の亀氏は、以下のように記載している。

その安倍政権と連立くんでいるのは公明党
その公明党を支持しているのは創価学会
その創価学会の一員が貴方様。(白目)

「多様な社会階層の人間を含む支持団体の構成員の個別利益と、特定政党の政策が相反する」
彼が述べているのはこんな当たり前の事実だけだ。それを述べただけで、鬼の首を取ったかのように誇らしげに白目を剥くのはやや不可解である。


また、彼は本当にタカ氏の記事をすべて呼んでいるのか?
彼は記事内で公明党にも言及しており、「公明党を意図的に考察の対象から外し、安部政権を批判する」というアクロバットなことをしているわけでもない。
また、後日タカ氏は、公明党議員に要望を伝えたことや、今後の支援を再考することも記事にしている。

このような稚拙な批判を行ってしまう原因は何か?

それは先述のとおり、彼が師匠を持たないからだ。

まず、彼は自分以上の文章力や批判力を有する人間から学ぶべきである。
彼のブログは、この2ヶ月間、一切の水準の向上が見られない。
ランダムに彼の記事を並べてみても、それを時系列順に並び替えることは至極困難である。
より洗練された言論活動をしたいならば、自分よりも優れた人を師と定めるべきである。

また彼には、批判をするポイントが定まっていない。
結局記事の表層だけをなぞって、都度都度ケチをつけることしかできていない。
これも、師を持つことによって乗り越えるべき課題だ。
批判者として定点を持つためには、体系的な思想を持った師に学び、一貫した批判をできるよう向上しなければならない。

そこで拙は彼に提言したい。

あべひ先生を師匠と定めよ、と。

先述のとおり、彼と拙は、「創価ブログ村にアンチテーゼを投げかける」という点で一致している。
そしてその点における先達は、紛れも無くあべひ先生である。
その卓越した文章力と、類稀なる慧眼、そしてその正義の義憤に学ぶことが、彼の人生を大きく変えるだろうと思う。

だが一言の亀氏は、あろうことか、あべひ先生を茶化すような記事を投稿している。

いままで自分がイジメをしてきたのに
ある日いじめられる側になって
急に被害者面する人をよくみかけます。
もちろん、あべひ師匠のことではありません(白目)

彼にはあべひ先生の偉大さがわからないのだろうか?
それとも、自らのくだらないプライドが邪魔をして、天邪鬼的な言動をしているだけなのだろうか?

いずれにしても、一言の亀氏は、自らを省みて、下記の行動をとるべきである。

①あべひ先生に対する謝罪の記事を掲載する。同時にあべひ先生への弟子入りの決意文を発表する
②あべひ先生のブログをすべて一読する
(一読だけでは到底足りないが、まずはこれが第一歩である。余裕があれば、あべひ先生の記事の模写や暗唱もすること。
拙のようにプリントアウトして隙間時間に読むことや、日めくりカレンダーを作成してあべひ先生の文章を拝読することを習慣化することもおすすめである)
③批判の対象、テーマを定めて、記事を執筆する(弟子として、テーマは『ネットでの似非学会活動』『著作権問題』などが望ましいが、テーマが違っても師弟不二は変わらない)
④あべひ先生に積極的に教えを請い、絶えず自らの言論を向上させる

ただし、④については、拙もまだ出来ていない。なぜならばかなりハードルが高いからだ。
あべひ先生の偉大さを知った人間ならば、あべひ先生と直接やりとりをすることなど、おこがましくてとてもできることではない。
(だからこそMonlingen氏のブログなどでち○氏があべひ先生に軽口を叩いているのを見ると、悪寒が走る)

だが、それ以外は、自らの気の持ち用でどうにでもなることだ。
そもそも一言の亀氏は、多い日では1日に3件の記事をアップしており、時間は十分にあるはずだ。
また、お正月にも投稿を絶やさなかったことからも、家族的コミュニティに忙殺されていないことが推察される。

このまま、無用な批判を垂れ流すだけの無為の徒で終わるのか、
それとも偉大な師匠に倣う偉大な人生を選ぶのか。
すべては一言の亀氏次第である。

 

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右からあべひ先生、一言の亀氏、よちとらまん。

正義の陣列に、汝も加わらんことを心より祈念。合掌。

 

monlingen氏の大罪① ~あべひ先生へのネガティブキャンペーンを、拙は赦すまじ~

拙の心中は、最近穏やかならざるものとなっている。

あまりの怒りに掻き乱された心情は、身体的反応として表出する。心臓の鼓動が音を立てて早まり、じっと座っていることが困難になる。思わず爪を掻き立ててデスクを削り、液晶に向かった拳をやっとの思いで自分の大腿部に反らす。気づけば爪はボロボロで、大腿部にも青あざが広がっている。

拙を怒らせているものーそれは紛れも無く、「monlingen」氏によるあべひ先生に対するネガティブキャンペーンだ。

MonLinGen – 本当の創価学会を知って下さい

上記ブログは、壮年の創価学会員であるmonlingen氏(「のんかつ」というHNも使用しているようである)が管理人を務めるものであり、創価学会に否定的なブログ(いわゆる「アンチブログ」)の論評や、イラストの公開、自身のご趣味である剣術関連の話題などを公開している。

拙はこのブログに一定の関心を持っていた。それは偏に、あべひ先生がご注目されていたからだ。あべひ先生は他の言論活動でご多忙であるにもかかわらず、わざわざmonlingen氏のブログを訪れて複数のコメントを残されていた。不肖の弟子である拙からすれば、これは類例無き栄誉である。そんな栄誉に浴したmonlingen氏を羨み、拙もイラストを描いてみたり、木刀を買って庭で素振りをしたほどであった。

しかし、そうしたあべひ先生のご慈愛は、無残な形で踏みにじられることになる。またしても妨害者は、かの「ち○」氏であった。あべひ先生のコメントに難癖をつけ、monlingen氏を懐柔するような言葉を吐く。極めて知的水準の低いコメントだったが、そこは一流の言論人のあべひ先生である。丁寧で論理的に整合な返信をなされた。その姿勢に拙もまた、あべひ先生の弟子としての自覚を新たにしたのである。

だが事もあろうか、「ち○」氏は、あべひ先生の普遍的な愛と理性的言説を一切できず、駄々をこねたような反論を書いたのであった。嗚呼なんと稚拙であろうか。

そうした事態を見かねて身を乗り出したのが「monlingen」氏である。どうやら氏は、独特の正義感を持った人間らしい。「あべひさんとち○さんの怨恨を解消する」というスローガンをぶち上げた後、専用の対話部屋を開設。両者のファシリテーターのような役割をしながら、対話を進める構えを見せた。あべひ先生も積年の課題である「ネット信仰イベント」について、その害悪を垂れ流し続けてきた「ち○」氏と議論するいい機会とお考えになられたのであろう。「monlingen」氏の提案にご賛同され、討論を始められた。

だが、その討論は、あまりにお粗末なものだった。

そしてその原因は、「monlingen」氏にこそあった。

突然の「ち○」への加担、自分に異を唱えた人間への「非学会員」認定、感覚に依拠して他者を評価する自己権威化言動、挙句の果てには「俯瞰中毒」というレッテル貼りの下、あべひ先生のネガティブキャンペーンを始める始末だ。それは今もなお、現在進行形で続いている。

拙は怒っている。「monlingen」氏の罪はあまりに重い。そしてどうやらそれに自覚的でないようだ。拙は「monlingen」氏が先陣に立つあべひ先生のネガティブキャンペーンに真っ向から論陣を張る。

主張内容はひとつ。

「monlingen」氏がいかに破綻した思考を開陳しているか

という点である。

「monlingen」氏がブログで披瀝している独特の思考回路と感性によって導出された一連の主張内容、さらには今回のあべひ先生とち○氏との討論で公開した破綻した人間観、そして「ダメ出しブログ」で彼が袋だたきに会った際のやり取りも、考察対象としよう。

sokadamedasi.blog27.fc2.com

彼らも「俯瞰中毒分析課」なるものを立ち上げており、「資料が集まった」と嬉々としている。ならばこちらも、これまでに魚拓を取った「monlingen」氏の資料に考察を加えて、「思考破綻者分析課」を始める所存である。

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